村上さんが、高校までをすごした阪神間を回想したエッセイです。
・・そのようにしてひとりの典型的な「阪神間少年」ができあがる。当時の阪神間は――もちろん今でもそうなのかも知れないけど――少年期から青年期を送るには、なかなか気持の良い場所だった。静かでのんびりとしていて、どことなく自由な雰囲気があり、海や山といった自然にも恵まれ、すぐ近くに大きな都会もあった。コンサートに出かけたり、古本屋で安いペーパーバックを漁ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、アートシアターでヌーヴェルヴァーグの映画を見ることもできた。洋服といえばもちろんVANジャケットだった。
(新潮社刊;村上春樹「辺境・近境」より)
|
主人公の「僕」が、あまりの無口さのためカウンセリングにかかっていた頃の回想シーンです。
・・医者の家は海の見える高台にあり、僕が陽あたりの良い応接室のソファーに座ると、品の良い中年の婦人が冷たいオレンジ・ジュースと二個のドーナッツを出してくれた。僕は膝に砂糖をこぼさぬように注意してドーナッツを半分食べ、オレンジ・ジュースを飲み干した。―――中略―――週に一度、日曜日の午後、僕は電車とバスを乗り継いで医者の家に通い、コーヒー・ロールやアップルパイやパンケーキや蜜のついたクロワッサンを食べながら治療を受けた。
(講談社文庫版;村上春樹「風の歌を聴け」より)
|